【第9号】1. 日本発運賃の歴史と変遷(その1)OFCと国際航空運賃

今回から新たな連載を担当します、編集長の関本です。「日本発運賃の歴史と変遷」というテーマで、OFC社内に残る様々な資料を参照しながら、国際航空運賃がどのように変化してきたのかを振り返っていくつもりです。
もしかすると、「そう言えば、こんな時代あったな」と懐かしんでいただけるかもしれませんし、あるいは若い皆様にはやや驚きを持って読まれることにもなるかもしれません。

全部で何回の連載になるのか、自分でも想像つかないところもありますが、どうぞお付き合いください。

航空法と運賃制度について

運賃の中身の話に入る前に、日本発着の国際航空運賃がどのように作られ、記録されてきたかに触れておきましょう。
今は亡きIATA運賃(この話は追々)もキャリア運賃も含め、誰でも買える、広く一般に販売されている運賃を「公示運賃」と呼びます(反対は、企業契約など限定的に販売される「非公示運賃」)。この公示運賃は、航空法に基づき国土交通省に申請し、大臣の認可を受けなければならないこととされています。OFCの大切なお客さまである外国航空会社は、まさにこの航空法第129条に従って、OFCを通じて運賃申請を行われているわけです(本邦社については別の条項がありますが、ここでは省略します)。

航空法は昭和27年、西暦で言うと1952年に作られた古い法律で、現在も少しずつ手を入れながら使われているものです。最近では、ドローンに関する各種規制もこの航空法の中で決められており、新聞やニュースで航空法の存在を知ったという方もいるかもしれません。

OFCに残る運賃情報

OFCでは、航空法により日々国土交通省へ申請されている運賃の情報を蓄積し、タリフの形にまとめて旅行会社へご提供しています。社内には古いタリフ書籍がアーカイブとして残っており、貴重な記録となっています。
しかし、OFCが生まれたのは1984年。それより前は誰がどうやって運賃を申請していたのか。実は外国航空会社の運賃申請は、日本航空がお手伝いをしていました。これを事業として分離し、独立させたのがOFCなのです。故に、OFCの主要取引先は外国航空会社と旅行会社ばかり。日本航空とのお付き合いは、ほとんどありません。その証拠に(?)、JALグループで会社名に「JAL」や頭文字の「J」が入っておらず、これは少し前までグループ会社で唯一だったそうです(現在はZIPAIRがJALの名前を冠しないグループ会社に加わっています)。

戦後最初の国際線就航まで

さて、この節はOFC創業以前のお話なので、日本航空の社史や、その他資料を当たってきました。

戦後、GHQの指令により日本の航空機の運航は完全に禁止されました。空軍再建を警戒してのこととも言われますが、これにより民間航空運輸も停止され、1950年の日本の航空会社による運航禁止解除を待つこととなります。翌1951年に半官半民で誕生した日本航空株式会社(初代)は、まず国内線に就航しました。と言っても、アメリカのノースウエスト航空から機材も乗員も借りて(実質的には委託して)の運航でした。自主運航による定期路線を開設したのは、1952年10月のことです。
ちなみに、1953年には日本航空株式会社法が成立し、改めて日本航空株式会社が設立されます。今のJALは、この時点が設立日となっています。

この連載のテーマである「国際航空」がようやく登場するのは、更に続く1954年のこと。この年の2月2日に羽田発サンフランシスコ行きの初便が飛んでいます。資料によってはホノルル経由と書かれていますが、ほかに給油のためウェーク島にも寄っており、所要時間は約30時間。週3便での運航でした。

就航日 1954年2月2日
飛行ルート HND-AWK-HNL-SFO
機材 DC-6B(座席数:36席)
所要時間 約30時間
便名 JL002/001(週3便運航)

このJL2便という便名は、今も羽田発サンフランシスコ行きに引き継がれている、伝統あるものです。
では、この路線の運賃はいくらくらいだったのでしょうか。次回は1954年のサンフランシスコ行き運賃について、今と比較しながらご紹介します。

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