【第14号】1. 日本発運賃の歴史と変遷(その6)為替相場と運賃の変動

対ドル変動相場制の導入

 1949年に1米ドル=360円という固定レートが導入され、1971年まで続きました。

 1971年のいわゆる「ニクソン・ショック」で明らかになったドル不安により、1米ドル=308円に固定。更に1973年には変動相場制へと移行しました(ただし、その後しばらくは300円程度を維持)。更に、順調な日本経済を背景に徐々に円高が進行した結果、1978年10月には176円5銭に達しています。その他の要素を一切考慮せず、単純に対ドルレートだけを見れば、日本円の価値は倍になった、ということができます。

 なぜこんな話をしたのかというと、日本発運賃の価値が変わってしまうからです。当時IATAでは、TC1発着の国際運賃は米ドル建て、TC2・3発着はイギリスポンド建てとし、その他の通貨で支払う場合はIATAが定めた換算率で各国通貨から米ドルまたはイギリスポンドに換算していました。ところが、主要国間の為替相場が変動制に移行し、IATAの換算率との乖離が大きくなってしまいました。「日本円で支払う」と言うと、IATAの換算率は実勢レートよりもだいぶ円安設定になっていますから、最初から「米ドルで払います」と言うよりも割高になってしまうわけです。

【例】運賃額100ドルだったとして・・・

● 実勢相場が1米ドル=300円、IATA換算率も同じなら、日本円で支払うとき30,000円になる。

● 実勢相場が1米ドル=200円まで下がり、IATA換算率が1米ドル=250円までしか下がっていなければ、日本円で支払うとき25,000円になる。しかし、自分で米ドルを用意すれば、20,000円の元手で航空券を買えることになるので、日本円で買うと損をする。

 この不均衡を解消するため、IATAは米ドル、イギリスポンドと他通貨の換算率を実勢に近いところへ改定する一方、米ドル、イギリスポンド建ての運賃額を上げて調整を図りました。

発地国通貨建て運賃の始まり

 米ドルとイギリスポンドの相場が不安定なままであることから、1973年2月から3月にかけてロンドンで開催されたIATA会議において、暫定措置として、運賃は現地通貨建てとすることが決まりました。ただ、これはあくまでも暫定的なものと捉えられていたようで、同年4月から10月まで限定となっています。

 国際航空運賃は、物価の上昇、コストの増加、燃料費の変動などの要因により、多くの年では数パーセントずつ上がっていくようなIATA決議が出ていました(例外は、前回ご紹介したアメリカの政策的な事情など)が、日本円がどんどん高くなっていく局面において、日本発運賃の改定を当時の運輸省が認めず、この1973年には日本発の旅客・貨物とも4%引き下げられることとなりました。

オイルショックによる運賃の値上がり

 1973年、第四次中東戦争が引き起こした第一次オイルショックは、燃油が重要な航空会社の経営を直撃しました。原油価格の大幅な値上がりによって、1974年には、IATAは1年間でなんと4回も運賃を改定。 我が国の運輸省もそれを認可しています。

※ 1975年(昭和50年)の運輸白書には、この結果「旅客22.6%、貨物22.4%の値上げとなった」と書かれており、想像以上の上げ方に、思わず二度見しました。

 この頃、アメリカのドル防衛政策の影響を受け、円安が進行。一時1米ドル=250円付近まで戻しています。ちなみにIATAでは、このような急激かつ大幅な為替相場の変動に対応するため、「カレンシー・サーチャージ」なるサーチャージが設けられており、日本発の円建て運賃に4%が付加される時期もありました。

 今なら、燃油の値上がりには燃油サーチャージで対応するところですが、当時はあくまでも運賃額を変えることで吸収しようとしていたんですね。

当時の団体運賃の状況

 順番が前後しますが、1970年、日本に海外から多くの人々を集める一大イベントが開催されました。大阪万博です。

 全世界から77か国(日本を含む)が参加し、アジアで初めての万博として実現したもので、航空会社も、それに合わせて観光客向け運賃を導入しています。一例として、バルクIT運賃は、太平洋路線への新規導入(40席以上、5席単位)、欧州路線では既に導入されていたものの、適用期間が観光需要の少ない冬季のみに限られていたのを、万博に合わせて期間延長。また、個人向けを含め、包括運賃は値下げされました。

 ようやく、OFCが創業された1984年に近付いてきました。もう少ししたら、過去の書籍の話など取り上げられるのではないかと思っています。

 引き続き、次回もお楽しみに。

この記事を書いた人:

関本(編集長)

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