【第15号】3. 日本発運賃の歴史と変遷(その7)運賃の方向別格差是正

 

為替相場の動向

 前回、1970年代の対米ドル円相場についてお話しました。もう少しあとの時代まで、一覧でまとめてみます。

時期1米ドル出来事
1973年3月まで306円ここまで固定相場制
同4月260円程度変動相場制導入
同10月300円前後第1次オイルショック
1978年末180円前後日本の高度経済成長
1980年250円前後ドル防衛政策
1980年代前半200円台前半米国の高インフレ
1985年秋200円前後プラザ合意
1986年末160円前後日本のバブル景気
1987年春120円前後ルーブル合意

 1980年代後半については、日本の好景気を反映して円が強くなりながらも、乱高下を繰り返していました。国際航空運賃も大いに影響を受けたわけですが、OPEC(石油輸出国機構)の原油価格統制が崩れたことで燃油相場が下がるという別の要因も加わり、複雑な状況になっていました(この話は、また追々)。

 

円高による方向別格差の拡大

 この頃も引き続き、国際航空運賃の額はIATAで決められていました(キャリア運賃の全盛期は、もっとずっとあとの話)。基本は年1回の見直し。各国間で合意できなかった場合や、特別な事情がある場合には、期中での変更もあり。いわゆる「運賃調整会議」の中で、カルテル的に運賃額が決定されたわけです。

 ところが、これほど為替相場の変動が大きく、かつ一方の通貨が高くなっていく(相手方が安くなり続ける)局面では、こっちとあっちの運賃額に差が出てしまいます。

 たとえば日本とアメリカの間を移動する場合。1米ドル=250円を基準として運賃を設定したとしましょう。東京発ロサンゼルス行往復運賃を、仮に50万円とIATAが定めます。予め決まっているレートを基に、ロサンゼルス発は米ドル建てなので、2,000ドル。これは、どっちを出発しても、同じ区間を往復するのに等価です。

 ところが、円高が進行して1米ドル=160円になってしまったらどうでしょう。その時点の為替相場で計算すると、ロサンゼルス発は2,000ドル×160円=32万円と、だいぶ安くなってしまいました。東京発はもちろん50万円で変わらず。国際航空運賃は「発地国通貨建て」が原則で、日本で、安い(IATAがそう設定したわけではなく、結果として、ですが)アメリカ発の運賃を使うことはできません。

 当時のIATAは、柔軟にレートを見直していませんでした。どの通貨を使うか、各国通貨間のレートをどう設定するかなど、いちいち加盟航空会社の決議により決定していたため、これほど急激な為替相場の変動には、ついていけなかったわけです。固定相場制の頃は、それで対応できていましたが、世界中に変動相場制が広まった結果、IATAの仕組みが古いまま取り残されてしまった状態です。

 ちなみに、現在はOANDA社の情報に基づき、月曜から金曜まで毎日IATAのレートは更新されます。そもそもキャリア運賃の時代ですから、航空会社が「日本発は安めにして、日本人にたくさん乗ってもらおう」などの施策によって、方向別で運賃額を変えることも可能。1970年代から80年代のようなIATAが定めたレートと為替相場の乖離による問題は、まず起きません。

 

方向別格差を縮小させる方法

 このように、急激な円高が進んでいた日本では、日本発と現地発での運賃の差が問題になっていました。

 これを解決する手段はいくつかあります。

IATA決議の下、運賃を変更する。

 一番わかりやすい手段です。IATAの運賃調整会議で「あっちとこっちで差があり過ぎるから、是正したい」と言って、日本発運賃(日本円建て)を引き下げ、または現地発運賃(現地通貨建て)を引き上げるという方法。

 ただ、これには関係国のいろいろな駆け引きがありまして、昭和54年(1979年)の運輸白書を見ると、こんな記述があります。

 昭和52年に急激に上昇した円相場は、53年に入っても更に上昇を続けたため、国際航空運賃について日本発円建て運賃と、外国発外貨建て運賃との間の相対的格差がますます拡大した。
 政府は、53年4月21日、経済対策閣僚会議において円高に伴う物価対策の一環として「国際航空運賃については、方向別格差のある路線について相手国発運賃にサーチャージを課し、日本発運賃にディスカウントを実施するよう、今後とも努めることとし、要すれば関係国の協力を求める」旨決定し、この決定に沿い日本航空を指導しIATA(国際航空運送協会)及び関係国政府に働きかけることになった。
 これを受け、IATAは日本発着運賃の検討を進め、新たな運賃協定を締結し関係国政府に認可申請を行った。申請の内容は、①太平洋線については基礎額を片道10ドル値上げし、さらに米国発運賃に6%のサーチャージを設定する。(カナダ発サーチャージの8%から13%への変更を伴う。)②欧州線については基礎額を約4%値上げし、更にイギリス発運賃のサーチャージを29%から36%に引き上げる。③日韓線については約3%の値上げを実施する。④日豪線については豪州発運賃のみを3~5%引き上げる、というものであった。
 これに対し、運輸省は調整が十分でないとして、日本発運賃の値上げを却下し、外国発運賃の値上げのみを53年6月19日付で認可した。外国発運賃の値上げは、欧州線及び日豪線については53年7月1日より実施されたものの、太平洋線及び日韓線については相手国政府(アメリカ及び韓国政府)の却下処分により失効した。

出典:昭和54年 運輸白書

 日本としては、日本発運賃の引き下げと、現地発運賃に割り増しをすることで是正を図るよう、IATAに要望。これを受けたIATAはいろいろやってみたものの、差を埋めるには不十分だったため、日本政府が日本発運賃の値上げ(IATAは毎年のように運賃額を上げていました。日本の要望には関係のない、定例のもの)を拒否して、現地発の割り増しのみを認可。ところが、アメリカと韓国がそれをよしとせず、結果的にアメリカ発と韓国発の割り増しは見送り、ということだったそうです。

 韓国政府の意図はわかりませんでしたが、アメリカは民間航空会社による自由競争を基調として、政府介入による運賃額の調整には消極的だった、という理由があるようです(「その運賃で乗る人がいて、経営が成り立つなら、いいじゃない」ってことでしょうか)。

 

安価な運賃を新たに設定する。

 いろいろな思惑があって相手国との足並みが揃わないのなら、安価な運賃を別に設定して、実勢価格を下げよう、という試み。

 翌昭和55年(1980年)の運輸白書を引用します。

割引運賃の導入についても、53年3月に日加間、5月に日米問において事前購入制の個人回遊運賃であるAPEX運賃(対エコノミー35%引き)を導入し、55年1月に日米間、3月に日加間において、途中降機等を樹湿した直行型の旅客のための特利エコノミー運賃(対エコノミ42~18%引き)が、6月に日豪間においてAPEX運賃(対エコノミー40~52%引き)が導入される等大幅な進展が図られた。

出典:昭和55年 運輸白書

 すみません、出典元サイトの誤字をどう修正すればいいのかわからず、変なままになっている箇所がありますが、ニュアンスだけ汲み取ってください。

「APEX」というのは「Advance Purchase EXcursion」の略で、事前購入型の割引運賃を指します。発券期限が早めに設定されていて、様々な制約が課されることで、普通運賃より安くなる。今の「キャリア特別運賃」と同じ考えだと思っていただければ結構です。

 観光旅行客がこの運賃を使う(出張でも、早めにスケジュールが決まっていれば、使えないわけではない)ことで、実際の運賃額を下げることができるわけです。

 

発地国通貨建てを一旦忘れる。

 何の話かと思うかもしれませんが、同じく昭和55年の運輸白書に、こんな話が書かれていました。

アメリカ政府の保留処分により15%の割引措置が実施できなかった日米間については、暫定的に〔日本発アメリカ向け往復運賃=往路片道運賃(円建て)+復路片道運賃(ドル建て)〕とし、この場合における復路片道運賃の円換算は実勢レートによることとする、という調整措置を54年6月1日から実施し、当該引下げ措置が実施されたのと同様の結果になるような措置を講じた。

 1979年3月に、日本政府は関係各所との協議を進め、日本発運賃について10~15%程度引き下げることに成功しました。ところが、アメリカだけはこれを認めず、日米間のみ方向別格差が残る結果となりました。

 そこで、本来であれば行きも帰りも日本円建てで計算しなければならないところ、復路はアメリカ発の米ドル建て運賃(日本発よりも割安)に実勢レートを掛けた暫定的な運賃額を適用することとし、片道分のみ値下げしたというわけです。

 今の時代なら、LCCなど、片道×片道で購入するのは珍しいことではなく、「そういう方法もあるよね」と思われるかもしれませんが、1970年代から80年代にかけての融通が利きにくい航空業界にあって、かなり思い切ったことをしたな、というのが、ぼくの正直な感想です。

 

 前回の終わりに、1970年の大阪万博に触れました。今回は、もう少し後の時代の話ですが、この頃にも日本の航空を大きく変える出来事がひとつあったのを忘れてはいけません。1978年5月20日、成田空港(新東京国際空港)の開港です。

 日本最大の国際空港として、多くの国・都市と結ぶ便が成田から飛ぶようになりました。成田が日本の東の玄関なら、西の玄関は大阪国際空港。通称伊丹空港です。ただ、ここを利用したことのある方ならおわかりでしょうが、市街地にあり、離着陸可能な時間帯に制約があります。早くも1974年に、今の関西国際空港に関する議論と検討が運輸省で始まっています。もちろん、その頃には、まさか関空がアジアからの観光客を多く受け入れ、多くのLCCが乗り入れる空港になるとは、誰も想像していなかったでしょう。

 関空開港あたりの話は、もうしばらく先になると思います。次回はようやく、会社に残る一番古いOFCタリフを引っ張り出してきて、画像付きでご紹介する予定です。

 

この記事を書いた人:

関本(編集長)

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